

シドニー湾のランドマーク「シドニー・オペラ・ハウス」をはじめ、メルボルンを一望する「メルボルン展望台」など近代的な建築物のなかに、入植当時の歴史的建造物が佇むオーストラリア。 18世紀、ジェームズ・クックのエンデバー号上陸以後、ゴールドラッシュなどによりめざましい発展を遂げ、国際連盟創立メンバーとしてもその名を知られている。
第4氷河期の中ごろ、約6万年前、オーストラリアの先住民・アボリジニの祖先がオーストラリアに到着していた。
オーストラリア大陸の存在は16世紀にはヨーロッパ諸国に知られていたが、内陸に初めて上陸したのはイギリスのジェームズ・クックである。1770年、ジェームズ・クックはエンデバー号に乗り、シドニー郊外のボタニー湾に上陸、ニュー・サウス・ウェールズと命名した。
アメリカ独立戦争の後、イギリスはアメリカに代わる新たな流刑囚植民地としてオーストラリアを推奨し、1788年1月26日、流刑囚がシドニー湾に上陸。食糧難や天然痘の蔓延などのなか、彼らは大陸内部へと入植地を広げていった。その後、南アフリカから輸入された羊(メリノ種)の輸出も始まり状況は好転。イギリスは1829年には全オーストラリアの領有権を主張し、正式にイギリス植民地となった。1851年にはハーグレイブズがニュー・サウス・ウェールズで砂金を発見。オーストラリアのゴールドラッシュの先鞭をつけた。これによりオーストラリアの人口は飛躍的に増えていった。
1901年オーストラリア連邦が誕生する。第一次世界大戦で、オーストラリア、ニュージーランド連合軍のアンザック軍(ANZAC)は英仏軍と共にガリポリの戦いに参加し、トルコ軍と激戦を交え多数の犠牲者を出した。終戦後は国際連盟へ加入。これにより、オーストラリアは国際社会において独立国として認められることになった。第二次世界大戦では、日本軍により攻撃を受け、ニューギニアやボルネオで日本軍と戦った。戦後は、太平洋諸島の非植民地化を支持。パプア・ニューギニアの独立に尽力を尽くした。 1970年代からは世界中から移民を受け入れる「多文化主義」へと移行し、大量移民計画を実施された。非英語系のヨーロッパ難民、中近東の難民、またアジアからの移民も受け入れられた結果、今日では人口構成が多様化し、先住民のアボリジニ、西洋、そしてアジアの文化が融合する多文化国家が確立している。
従来は輸出品目の主力である野菜や果物、小麦、サトウキビ、食肉、酪農品、ワインなど第一次産業製品が、オーストラリアの主産業となっていた。近年では、情報通信やコンピューターソフトなどのハイテク産業が急速に発展。オーストラリア経済に大きく貢献し、21世紀を牽引する産業として注目されている。

「世界三大美港」のひとつとして知られるシドニーのランドマーク。舞台芸術の総合施設として1974年に完成して以来、オペラ、バレエ、芝居、シドニー交響楽団演奏など、さまざまなプログラムが開催され、館内の主なシアターを見学できるガイドツアーもある。

オーストラリアの中枢機関が集まるサウス・キャンベラ。キャピタル・ヒルに立つ国会議事堂は、329もの応募から選ばれた近代的なデザインで、キャンベラを代表する建築物として知られている。旗の立つ尖塔の下は展望台で、旧国会議事堂を正面に見ることができる。